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中野 明安

医療機関のBCP

2024/11/29

医療機関のBCP

 医療機関のBCPは、特有の意味があります。医療機関のBCPはわかりやすい言葉で言えば、

 「病院機能の損失を出来るだけ少なくし、機能の立ち上げ、回復を早急に行い、継続的に被災患者の診療にあたれるような計画をいう」となるかと思います(「病院におけるBCPの考え方に基づいた災害対策マニュアルについて」より)。医療機関の重大リスクは言わずもがな「医療サービスを通常どおりに提供できなくなる状況」です。これは病院のBCP(事業継続)もリスクであると同時に、社会全体のリスクでもあります。

 大規模地震の際に被災した医療機関がどのような段階を踏んで復旧復興を行ったかについては、阪神淡路大震災や東日本大震災での被災医療機関のドキュメントなどで明らかとなっていますが、医療機関の被災時の特徴は「発災後、医療機関の医療供給能力は低下するが、被災者が訪れて需要量は急激に上昇する」ということです。このような状況に対応するように策定されるものが医療機関のBCPになります。患者と被災医療機関のやりとりは一種壮絶を極めるものと思います。患者は自らの命について懸念が生じるものですから、大丈夫かとの心配はダイレクトに医療機関に伝えられます。その最前線で取り組む医療従事者もその懸念を直接に受け取るものですから、その負担も尋常ではないでしょう。

 2011年の東日本大震災で被災した石巻赤十字病院では、以下のような状況であることが報告されています。流れを見てみましょう。



2011年3月11日午後2時50分 
 地震発災後、災害対策本部を立ち上げた。肝臓病の患者の手術中だった医師は、手術を他の医師に任せて本部に走った。

午後3時43分
 正面玄関(ロビー)にトリアージエリア設置、医師の配置完了。本日は、「外来診察中止」のアナウンスをしたところ、予約患者からは「それでおれがどうなっても知らないっていうんだな」との声が・・・「すみません」と頭を下げるしかない。
 休日だった職員は自分自身、家族の安全確認、安全確保の後、自主的に登院。各自、対策本部に行き、名前と家族の安否を登録。
 ・・・この時点(発災直後)では運び込まれる患者は予想外に少なかった。
 夕方に網膜剥離の手術を予定していたが中止を説明。非被災の病院での手術を勧めた。

午後8時
 3分の2の職員に帰宅指示。しかし道路冠水のため帰宅できない状況であった。
 また、周辺住民は地震の影響で自宅が停電をしていたため、病院の明かりを頼りに避難してきた。ここから帰宅困難者が増えてくる。
 夜半になり、軽傷者の搬送が増大。トリアージタグがなくなる。搬送される負傷者は「低体温症患者」が殆どという「災害訓練では想定外」であった。濡れた衣服を脱がせて、毛布、布団、布類で包む。これだけでも人手が非常にかかる。

3月12日午前0時
 このころまでに99人の傷病者が搬送された。緑のトリアージは47人、黄は33人、赤は17人、黒は2人。緑、黄のトリアージタグの患者は治療後の入院は不要だったが、ほぼ例外なく帰れなかった(自宅、交通手段が被災していたため)。

3月12日午前5時30分過ぎ
 このころには各地のDMATが到着、支援に入ってくれたが、搬送される傷病者も倍々と増えた。患者同士の小競り合いが始まった。「俺が先だ」「俺の方が大変なんだ。」止めに入った職員も蹴りつけられた。
 院内ボランティアメンバーは自ら被災しており、駆けつけられなかった。

3月12日午前6時過ぎ
 帰宅困難者への説明「お帰り頂くためのバスを用意します。あなた方よりも、もっと困っている人が大勢います。病院としてはその人たちを治療する医療活動のスペースを確保しなければならない。」・・・素直に聞き入れた。
 →昼頃から点在する60カ所の避難所に搬送。その後6日間で1460人を搬送した。

  切り傷の患者には消毒をして、縫合。再来院を促す。再来院をした患者のほぼ100%が化膿。「津波の水がいかに不衛生で、また抗生剤の不足など自分たちの医療の質が落ちているかを思い知らされた。」「普段だったら、当院で治療できますが、今回のような大災害のときは、いかに早く被災地外の病院に運ぶかが大事です。」


 この病院が復旧をして外来診療を再開したのは、地震発災から1ヶ月後の4月11日でした。医療機関の被災時の特徴は、発災後、医療機関の医療供給能力は低下するが、被災者が訪れて需要量は急激に上昇する、すなわち需給バランスの急激な悪化、ということです。

 被災地での医療機関の頑張りが私たちの社会の安心安全をつなぐ。応援したいと共に、私たち一般の事業者としてもその教訓はBCPに取り入れたいですね。

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