生成AIに代表されるIT業界において、とりわけその最先端を走るスタートアップは、常に注目の的であり続けており、企業の成長戦略を検討するうえで欠かすことのできない存在です。
政府も、スタートアップが社会的課題を成長のエンジンに転換し持続可能な経済社会を実現するものであるとして、2022年11月28日に「スタートアップ育成5か年計画」をとりまとめ、スタートアップ・エコシステムの育成に向けた制度の整備を進めております。
昨年の9月30日には、経済産業省が、適切なスタートアップ投資の促進を図ることを目的として、「我が国における健全なベンチャー投資に係る契約の主たる留意事項(増補版)-スタートアップの成長に資するガバナンス設計と投資契約実務のアップデート-」(いわゆるスタートアップ投資契約ガイドライン)を公表しており、同ガイドラインにおいては、スタートアップのExitの方法として、IPOに限定することなく、M&AによるExitの選択肢にも配慮した実務を周知しているところが特徴的でした。
その流れにおいて、今般、経済産業省は、2026年5月21日、「スタートアップM&Aガイダンス-スタートアップ・エコシステムの成長・発展並びに新産業の創出に向けて-」(以下「本ガイダンス」といいます。)を公表しました。
本稿では、本ガイダンスのポイントについて、ご紹介いたします。
1 本ガイダンスの目的
スタートアップ・エコシステムを発展させていくうえでは、スタートアップがIPOやM&Aといった次の成長手段を適切に選択していくこと(投資家にとっても投資回収の機会が活発であること)が重要です。これまでは、スタートアップによる資本政策上の成長手段としては、日本特有の事情として主にIPOが志向されがちであったところ、海外投資家の動向やIPOを取り巻く環境の変化等に鑑みて、今、スタートアップにとってのM&Aの重要性が非常に高まってきています。
そこで、本ガイダンスは、売り手と買い手の双方に対し、スタートアップの成長手段としてのM&Aの重要性やM&Aを効果的かつ適時に活用するための留意事項をガイダンスし、その結果として、成長手段としてのM&Aが加速・活発化され、スタートアップ・エコシステムの発展並びに新産業の創出に寄与することを目的としております。
2 売り手(スタートアップ)に対するガイダンス
売り手に対する主なガイダンス内容は、概要、以下のとおりです。
✓ M&Aの実施においては、経営者・投資家等、複数のステークホルダー間で利害が対立しやすく、これらの調整が滞ると適時のM&Aの実施が難しくなるため、経営の早期からIPOとM&Aの双方を見据えて経営するデュアルトラック経営によって、M&Aの場面におけるステークホルダー間の利害衝突を可及的に回避し、会社にとってベストな成長手段(Exit)を最適なタイミングで実施できるようにしておくことが重要である。
✓ デュアルトラック経営においては、資本政策・ガバナンス・事業戦略・人材を一体的に検討することが有用である。とりわけ、資本政策については、中長期的な視点を持ちながら、資金調達手段や投資家の選定を行い、ガバナンスについては、株主の意思決定に係る事項(特定の投資家に拒否権を集中させないようにするなど)や取締役会の運営に留意し、事業戦略については、経営の早期から売上・利益といった基本的な財務的指標を意識するようにし、人材については、M&A実務に長けた外部専門家との連携体制の整備やCFO等を確保することが有用である。
3 買い手に対するガイダンス
買い手に対する主なガイダンス内容は、概要、以下のとおりです。
✓ 自社にとって戦略的に重要な新規の領域を定め、スタートアップのM&Aをインオーガニックな成長戦略を実現する手段として、経営戦略上に位置付けることが重要である。
✓ スタートアップM&Aが持つ特有の性質を理解し、経営トップを含めた迅速な意思決定プロセス、複数年度での確保も検討した予算策定、M&A実施に係るリスクを組織として吸収できるインセンティブ設計等について既存事業とは異なる枠組みを構築することが有用である。
✓ 買収の実務では、戦略的価値を定義した上で、持ち込み案件に依存することなく戦略的・能動的にソーシングを行い、財務指標のみに基づかないシナジーを具体化し定量的に織り込んだ事業計画に基づき買収価格を算定し、M&Aをスタートと理解し買収後の事業の成長を実現するための統合(PMI)を会社全体としてコミットして進めることが有用である。
4 投資契約・株主間契約における留意点のガイダンス
多くのスタートアップが直面する課題として、初期段階で締結した投資契約や株主間契約が、後のM&A実行時に障害となるケースが頻発していることから、当該障害を回避するため、初期段階からM&Aを見据えた契約設計が重要であるとし、具体的には、以下の点が指摘されております。
1.株式流動性の設計
(1) 先買権の戦略的活用
株主間契約において先買権(ある株主が自らの保有する株式を第三者に売却しようとする場合に、先買権者が自ら当該株式を優先的に買い受けることができる権利)が設定される場合、既存株主による株式取得機会の確保と、望ましくない第三者の参入防止という利益がある一方、この権利が潜在的買収者の参入を阻害し、企業価値最大化の機会を逸失させるリスクも存在します。そのため、バランスの取れた設計として、マイノリティ投資の段階では先買権を設定せず、コントロール投資の段階で導入するといった段階的アプローチも有効です。
(2) ドラッグアロングの最適化
株主間契約においてドラッグアロング(特定の大株主が自らの保有する株式を第三者に譲渡する際に、少数株主に対しても同条件で株式譲渡を強制することができる権利)が設定される場合、少数株主の反対によるM&A阻害を防止できる一方、経営陣の意向を無視した買収が実行されるリスクも存在します。そのため、バランスの取れた設計として、大株主の同意に加えて経営陣の同意も要件とする例もあります。
2.残余財産分配方法の最適化
(1) 参加型と非参加型の選択
投資契約においては、投資家の権利保護として、残余財産分配やM&Aの売却益における優先権が設定されることが一般的です。とりわけ、「参加型」(優先的に残余財産や売却益が分配された後、なお分配可能な財産や売却益が残っている場合に優先株主を含む全株主に分配する方法)が採用されることが多いところ、この方法では、投資家はM&Aに同意しやすい一方で、売り手(経営者等)には十分なリターンが配分されないことから合意形成が詰まりやすいことを踏まえ、そのような分配構造を検討・調整することが有用です。
(2) 投資家間の分配順序
複数回の資金調達を実施したスタートアップについての投資契約においては、異なるラウンドの投資家間の分配順序も重要な検討事項となります。「パリパス構造」では、全投資家が平等に分配を受けることができるところ、「スタック構造」では、最新ラウンドの投資家から順次分配が行われるため、初期投資家の利益が圧迫されM&Aに反対しやすく合意形成が詰まりやすいため、パリパス構造の採用が望ましいのではないかという議論が拡がっております。
3.意思決定権限の適切な配分
(1) 拒否権の戦略的設計
投資契約において、特定の重要事項に対する投資家の拒否権(事前承認権)が設定されることがあります。これらの権利は投資家保護の観点から重要である一方、過度に広範囲な拒否権は、将来のM&A実行時に重大な障害となる可能性があります。とりわけ、単独の投資家がM&A関連事項に対して絶対的な拒否権を有する場合、当該投資家の反対により頓挫するリスクがあります。そのため、M&Aを見据えるのであれば、単独の株主が少なくともM&Aについては拒否権を持たないように設計することが有用です。
(2) 段階的権限の見直し
株主間契約などにおいて、既に拒否権が設定されてしまっている場合もあります。そのような場合には、スタートアップの成長段階に応じて、拒否権の範囲などの見直しを図ることが適切であり、また、拒否権の調整交渉においては、個別の権利のみに焦点を当てるのではなく、企業ガバナンス全体の最適化という文脈で議論することで、関係者の理解が得られやすくなることが期待されます。
4.Exit戦略の柔軟性確保
従来の投資契約では、IPO(株式公開)を前提とした上場努力義務が規定されることが一般的でした。しかし、この条項により、経営陣がIPOを唯一の成功指標と誤解し、M&Aという有効な選択肢を軽視する傾向が見られます。そのため、より柔軟なExit戦略を実現するため、上場努力義務をそもそも定めないか、M&A等の選択肢を含めたExit努力義務に再定義することが考えられます。
5 M&A実務の留意点のガイダンス
投資契約等において、早期の段階からM&Aを見据えたとしても、実際のM&Aの場面では、実務上、留意すべき点は多々あります。本ガイダンスにおいても、主なポイントとして次の点が指摘されております。
1.M&Aストラクチャーの戦略的選択
スタートアップのM&Aを実行するうえでは、株式譲渡が中心的なスキームとして採用されているところ、M&A実行のタイミングと取得株式の割合などにより、異なる戦略的アプローチがあります。
(1) 即時買収戦略
過半数以上の株式を一括取得する即時買収では、買収企業が対象企業の経営権を即座に獲得し、迅速な統合プロセス(PMI)の実行が可能となります。この戦略の主なメリットは、意思決定の一元化による統合スピードの向上と、後工程での条件再交渉リスクの回避です。ただし、即時買収では企業文化の融合や期待値調整に十分な時間を確保できないため、統合初期段階での摩擦が顕在化しやすい傾向があります。したがって、事前の詳細なデューデリジェンスと、綿密なPMI計画の策定が成功の鍵になります。
(2) 段階的買収戦略
マイノリティ出資から開始し、段階的に株式を取得していく段階的買収では、両社間の相互理解を深めながら統合を進めることができます。特に、技術的リスクが高い領域や、市場環境の不確実性が大きい事業においては、段階的アプローチによるリスク軽減効果が期待できます。一方で、この戦略は、株主構成の複雑化を招き、将来の資本政策に制約を与える可能性があるほか、関係深化の過程で最終的な買収合意に至らないリスクも相対的に高くなります。
(3) スイングバイIPO戦略
M&Aによる大企業傘下入りを経て、そのリソースを活用した企業価値向上後に再度IPOを目指すスイングバイIPO戦略では、親会社の資金力、ブランド力、販売網を活用した成長加速や赤字期の資金繰りを親会社が支えることで単独では難しい投資が可能となるほか、株主構成が整理され、かつ、親会社がIPO後の安定株主にもなり得たり、買収後も経営陣が相当程度の株式を残すことでIPOに向けた強いインセンティブを維持できたりします。もっとも、この戦略は、最初から完成形として設計しておくというより、協業を通じて段階的に、あるいは結果的に選ばれているのが実情です。
2.複雑な資本構成の整理
スタートアップM&Aでは、コンバーティブル投資手段(転換社債、転換優先株式等)や新株予約権(ストックオプション)の存在により、資本構成が複雑化していることが一般的です。これらの権利の適切な処理は、M&A実行の前提条件として最終契約に明記される重要事項となります。
(1) コンバーティブル投資手段の処理
コンバーティブル投資手段については、M&A実行時の処理方法が発行要項で予め定められていることが通常です。主要な処理方法として、評価上限額に基づく株式転換(完全希釈化ベース)と、投資元本に一定額を上乗せした金銭償還の二つの選択肢があります。投資家は、M&A時のバリュエーションが十分に高い場合は株式転換を選択し、バリュエーションが期待を下回る場合は金銭償還を選択することで、投資リターンの最適化を図ることになるため、買い手としては、投資家の選択に応じて株式買取または金銭対価分の調整‘(バリュエーションに反映)を行うことになります。
(2) ストックオプションの戦略的処理
ストックオプションについては、M&A実行時に権利が消滅する設計となっているケースが多く、従業員のインセンティブ効果が十分に発揮されない問題があります。この課題に対処するため、M&A後もインセンティブを維持するため、発行時点からM&Aも見据えた制度設計(税務面の検討も踏まえておく必要あり)やコミュニケーションを行なっておくことが重要です。
3.対価構造とグループイン後のインセンティブ設計の最適化
スタートアップの価値の源泉は人材にあることが多く、買収後のキーパーソンのリテンション(引き留め)は、M&A成功の重要な要素であることから、効果的なインセンティブ設計により、短期的な人材流出を防止し、中長期的な事業成長へのコミットメントを確保することが重要です。
(1) 株式対価の活用
現金対価のみのM&Aでは、売却時点で事業との経済的関係が終了しますが、買い手の株式を対価に含めることで、スタートアップ経営陣の利益を買い手グループ全体の成長と連動させることができます。この設計により、キーパーソンの中長期的なコミットメントを引き出すことが期待されます。
(2) アーンアウト条項の設計
アーンアウトは、買収対価の一部をM&A後のKPI達成度に応じて後払いする仕組みです。売主と買主の間の企業価値評価の乖離を埋める手段として有効であり、売り手側は自らの成長仮説を条件付きで価格に反映させることができる点がメリットとされております。ただし、KPI達成の判定を巡る紛争を回避するため、KPI指標の定義や算定方法などを明確に合意しておくほか、M&A後の経営裁量などKPI達成に影響する事項の整理が必要です。
(3) リテンションボーナスと業績連動報酬の設計
リテンションボーナスは、M&A直後の統合期における人材離脱を防止するため、一定期間の在籍を条件に支払われる報酬設計であり、業績連動型報酬は、中長期的な事業成長への主体的関与を促すため、役割やKPI達成度に応じて変動する報酬設計です。これらの報酬制度により、短期的な人材流出防止と、中長期的な事業関与促進の両方を実現することが規定されます。
4.最終契約における表明保証と補償責任の適切な設計
M&Aの最終契約では、スタートアップの実在性、契約締結権限、株式の瑕疵の不存在等について、売主による表明保証が設定されます。スタートアップM&Aでは、事業に精通した経営株主(創業者等)が表明保証の主体となる(VC等の投資家は事業運営に直接関与していないことを理由に責任を限定する)ことが一般的です。経営株主個人の資力には限界があるため、補償責任の範囲、金額上限、期間を明確に設定し、売却対価を上回る過度な負担を回避する設計が有用です。
6 おわりに
スタートアップM&Aの成功には、初期段階からの戦略的な契約設計と、実行段階での適切な法務実務の両方が重要です。本ガイダンスで指摘されている事項の浸透により、スタートアップ・エコシステムの発展と新産業の創出に向けて、M&Aが有効な成長手段として活用されることが期待されています。
(文責:鷲野)

